走ることから見える格差
箱根駅伝や全日本大学駅伝を見ていると、選手のタイムはどんどんレベルアップしています。今や10000mのベストタイムで28分台は珍しくありません。
同時に、ふと思ったことがありました。最近は、小顔でシュッとした顔立ちで格好良いランナーが多いことです。彼らは髪型や身だしなみもさわやかです。インタビューでは、がんばる姿勢や、人当たりの良さ、素直さが感じられ好印象を受けます。そして、なかには、京大の平井健太郎選手のようにスポーツ推薦ではなく受験を経て難関校に入り、文武両道を極めている選手もいます。
完璧すぎます。非の打ちどころがありません。テレビで彼らが颯爽と走る姿を見ながら「持てる者」と「持たざる者」の格差が広がっている気がしました。
社会が進化するにつれて、格差は広がる宿命なのかもしれません。ある才能に恵まれた人が社会で成功を収めると、容姿端麗なパートナーと結ばれることが多々あります。そして、その子供は才能と容姿を受け継ぎます。さらに、生まれながら文化資本に恵まれ、才能を思う存分に開花させていきます。また、家庭では十分な愛情を注がれ人格形成が進みます。成功体験を重ねるなかで努力する能力を身につけていきます。こうして「持てる者」が生まれます。
「持てる者」と「持たざる者」。体力だけを考えても格差はこの30年の間に広がっています。中学生男子の1500m走の記録に注目してみたいと思います。文部科学省の全国体力・運動能力テストのデータを参考にします。
子どもの体力・運動能力が全般に高かった昭和60年には中学生男子の1500m走の平均は6分6秒40。一方で、平成27年には6分33秒42でした。27秒も遅くなっています。このことから、中学生一般の体力が随分と落ちていることが分かります。(昭和61年から平成20年までのデータは記述されておらず分かりません。また、年々タイムが遅くなっているわけではありません。ここ数年は少し改善しています。)
一方で、上位選手のタイムはどうでしょうか?適当なデータがないか探していると、静岡県陸上競技協会さんのHPに良いものがありました。年ごとにランキング10位までの平均タイムを載せています。優勝者のタイムではばらつきがありますが、平均タイムにすることで上位選手層の速さの推移が分かります。世の中には親切なデータがあるものですね。
このデータによると、昭和60年の静岡県の中学生男子の1500m走の十傑平均タイムは4分21秒85。一方で平成27年は4分7秒85です。14秒も速くなっています。
つまり、トップ層の選手は14秒進化しているのに、全体では27秒退化しています。一部の選手が文化資本に恵まれて才能を伸ばす一方で、多くの子どもたちが体力を低下させています。家庭でゲームをして外で遊ばなくなったり、学習塾が忙しくてクラブ活動をしなくなったり、様々な要因があるでしょう。そのなかで、貧困も要因の一つになっていると思います。貧困と体力には相関関係があります。
スポーツに打ち込むためにはある程度の経済的余裕が必要です。また、生活が苦しい家庭の場合、生活習慣が乱れることがあります。1500m走なんて苦しいだけのもの、怠くてやってられるかと反発する生徒も多いと思います。
また、現代では「頑張る能力」も大事です。昔は、鬼コーチの体罰も含めたスパルタ指導の下で成長していく選手もいたでしょう。しかし、現在は体罰は厳禁。競技について真摯に向き合い、自分で自分を追い込める人しか成長できません。成功体験が少ないと「頑張る能力」も育ちません。
現在、子供の貧困(相対的貧困)の実態が明らかになり社会問題になっています。10年後、タイム差はもっと広がって「持つ者」と「持たざる者」がより際立っているかもしれません。
「持つ者」はこれからも進化を遂げていくでしょう。一方で、「持たざる者」みんなが速く走ることを目指す必要はありません。走ることが嫌いな人がいたっていいです。ただ、「頑張ること」の楽しさや「成長すること」の嬉しさを感じるために、走ることが何かしら役に立つのではないかと考えたりします。
最近、スポーツにおける文化資本と体力・運動能力の関係性について関心があり、下記の本を読みました。