晴れ時々走れ

マラソン、トライアスロン、人生について

2度目の1.17追悼ラン

去年に続いて、1月17日の夜、神戸から大阪まで走りました。

 

夜8時すぎ、阪神電車に乗って神戸の東遊園地に到着。菊の花を一輪もらい、慰霊モニュメントに手向けて、亡くなった方々を悼みます。水面はすでにたくさんの白い菊で埋め尽くされていて、雨上がりの湿気のなか菊の香りが漂ってくるようでした。

 

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朝は土砂降りの雨だったので、竹灯籠が置かれているグラウンドはこの時間もぬかるんでいます。ろうそくの火は8割方、消えていました。消灯まで残りわずかの時間でしたが、水たまりに気をつけて歩きながら、一つ一つ消えたろうそくに火を灯しました。近くでは家族連れで来た、小さな子どもたちも一生懸命に火を継いでいました。

 

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災害や事件、事故の報道を見聞きするたびに、何事も起きない当たり前の日々の価値に気づかされます。ゼロであることの価値です。

 

日常ではなかなか、この価値に気づけない。何も起きないことがいかに幸せか。

 

人間は変化が伴う価値には敏感だ。例えば、海で溺れたり、山で遭難したりして、死の危機に瀕する状態に置かれたとき、誰かに助けてもらい救われれば、心の底から感謝をするはずだ。自分の置かれている状況が、マイナスからゼロに移動したから、その価値は分かりやすい。

一方で、日々の備えによって何も起きずに済んだ場合、同じゼロの状態なのに、その価値を無視してしまう。そして、何かコトが起きて初めて、その当たり前の日常の尊さに気づく。

 

特に子どもが生まれてからは、当たり前の日々の尊さに気づかされます。そして、震災で突然、我が子を失った親の姿に、自分を重ねると胸が苦しくなり身を悶えさせます。

 

今年の「1.17のつどい」で挨拶をした男性は、大学生の息子を震災で亡くした。東京の大学から実家に帰っていた息子は16日に東京に戻る予定だったが、1日帰るのを引き留めたがために震災に襲われた。16日の夜、珍しく息子の誘いで一緒に銭湯に行き、将来のことを語ってくれた。そして、その数時間後に地震が起きた。その悲しみ、悔しさはいかばかりか。

 

震災を教訓に私たちができること。それは、当たり前の日常の価値、ゼロの価値に気づくことだと思います。そして、ゼロであり続けるためにできることは、日々の営みのなかで行うルーティンワークのような地味な防災しかありません。

 

寝室には倒れてきて危ないものは置かない。

暖房器具など火災の危険がある機器の扱いに気をつける。

子どもと出かける時は目を離さない。

信号待ちをするときは、車が突っ込んでこない場所に立つ。

駅のホームを歩くとき、端を歩かない、などなど。

 

それでも、無慈悲に災害はやってくる。

夜9時、東遊園地に並べられた竹灯籠を一つ、一つ、消しながら、実行委員長の挨拶に耳を傾けた。「もう、風化を防ぐという時期は終わった。どう伝えていくかが大切だ」と会場内に残った人たちに向けて静かに語りかけていた。

その通りだと思う。被災した当事者の方々にとっては永遠の記憶であっても、そうでない方にとって記憶が薄れていくのは自然なことだ。でも、それぞれが震災から何かしらの教訓や思いを得て、伝えていくことは大事だと思う。そして、その方法は杓子定規で定形化したものではなくて多様であって良いと思うし、様々なアプローチがあるからこそ幅広い層に伝わっていくのだと思う。

 

そんなことを考えながら、神戸から大阪まで30kmの道のりを走ったのでした。

 

よろしければ、去年のエントリもご覧ください。

 

harehashire.hatenablog.jp

 

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